ご案内
一九九七年秋、二十六歳のときである。
風邪のような症状から一気に高熱を発し、救急車で病院に運ばれたが、それ以降の日についてははっきりとした記憶がない。
劇症肝炎による意識混濁に陥ったからである。
劇症肝炎は、肝炎ウイルス、薬剤性、代謝性疾患などが原因となって、あるいは原因不明のまま、肝細胞の広範囲な壊死が広がり、肝性の昏睡から脳症をともなって進行する。
救命率の低い病である。
Sは、市中病院、さらに阪大病院へ運ばれたというのも後になって知ったわけであるが血液交換などの治療を受けた。
血漿を交換するのは肝臓の代謝機能を代行せんとするものであるが、緊急避難の対症療法でしかない。
昏睡度が深まり、移植しか救命手段がないと診断され、その成立は不明であったが、K大へと運ばれた。
境港から両親が駆けつけた。
S、父、母ともA型で、ドナーの条件は両親ともにあった。
劇症肝炎への肝移植はこれ以前もあるが、緊急手術のむつかしさがある。
家族と移植の相談と準備をすすめている間に患者が脳死に陥ってしまったという例も数例ある。
事は一刻を争う。
生体肝移植の成立には、ドナー候補者に二度、三度と面談し、じっくり時間をかけて判断してもらうのが望ましいが、その余裕がない。
Sの場合、面談をするとすぐ父がドナーとなることを申し出た。
通常の左葉切除による肝移植であった。
救急車で運ばれてのち、Sが意識を取り戻したのはICUである。
「K大病院です」というのが、耳にした人の声であった。
事態を飲み込めたのはその後しばらくたってからである。
術後、しばらくは順調であったが、やがて拒絶反応の徴候が持続的に現われてきた。
慢性拒絶反応である。
だるさ、食欲不振、不眠、かゆみ……などの自覚症状が断続的に起きて治まらない。
やっかいなのはかゆみで、「肝臓の中からかゆい」という感じでどうにもたまらない。
氷水をお腹に置くとわずかに効果があった。
拒絶反応はどの移植患者にも必ず起きる。
三日後、十日後、ひと月後というような波があって、そのつど免疫抑制剤の増減によって治まってくれるのであるが、難治性の慢性拒絶反応となると有効な手段がない。
彼女の場合も、FK506、OKT3などあらゆる抑制剤が併用して投与されているが、利き目がなかった。
そのスタート以来、拒絶反応と感染が臓器移植の二大障壁とされてきた。
その対策が大いに進んだいまも、特定の患者にとってそれはなお乗り越えられない壁として存在している。
Sの担当医はD裕大がつとめている。
男性的な雰囲気の、外科医らしい外科医である。
第二外科への入局は一九八二年。
この当時、新しい外科として登場しつつあった移植外科に魅力を感じた。
受け持った肝硬変の患者がなすすべもなく亡くなっていく体験も移植に目を向ける契機となっている。
Tたち小児外科グループがはじめた動物実験のチームにも当初から加わっている。
その後、Dは香川・坂出、大阪の病院での勤務を経て医局に戻った。
K大で生体肝移植の臨床がはじまった当時は博士課程の医局員であったが、チームの一員として第一例からこれに参加した。
イカルセンタで肝移植(脳死肝移植)の臨床忙たずさわっている。
アメリカにおいてはすでに移植が日常の治療となり、肝移植の臨床が全米に広がっていた時代である。
メディカルセンターにおける肝移植チームのボスはカルロスーエスキュバルで、ピッツバーグのスターツルのもとで修行した外科医である。
術者たちも第二世代が担う時代に入っていた。
Dはここで、脳死者からの肝臓摘出、植え込み手術を合わせ、百数十例の臨床にかかわっている。
帰国が一九九四年。
K大チームの生体肝移植は百例を越え、Tをヘッドに週二例の手術がコンスタントに行なわれるようになっていた。
I、U、B、Gらをグループ班長に、生体肝移植がシステムとして整っていった時期であったが、移植治療の困難な課題があらためて見えてきたころでもあった。
そのひとつ、EBウイルスにDは取り組んできた。
EBウイルスとは発見者の名前をとってつけられているウイルスで、人の多くがこれをもっていて、それ自体問題はない。
ただ、肝移植をした患者たちには免疫抑制剤が使われる。
それ自体もほとんど問題ではないのであるが、小児患者にFK506の大量投与とOKT3が併用された場合、リンパ増殖症が発生しやすいことがわかってきた。
そのさい「ぽんと癌のスイッチを入れる」ことにEBウイルスが関与しているのである。
いわば拒絶と感染の間の迷路に発生する宿命的な合併症である。
癌化したさいには化学療法が残された手段であるが、移植がはしまった初期の時代、悪性リンパ腫となった患者の多くは亡くなっている・その後免疫抑制剤のさじ加減によって改善されてきてはいるか依然大きな壁のひとつとしてあり続けている。
Sの場合、合併症ではないが、難治性の慢性拒絶、つまり死への不可逆の道に入っていた。
可逆の方途は再移植しかない。
ただし、拒絶反応による再移植は、同じ難治性の拒絶が起きる割合が高い。
文字通りの賭けであって、それを選ぶかどうかは当事者たちである。
今度は家族も時間の余裕があった。
家族会議が何度かもたれ、当初父は、母までは……という意向であったというが、やがて母白身の決心があり、その意向が伝えられた。
Sにすれば、最初の移植は気がついてみれば行なわれていた手術だった。
再移植は違う。
父ばかりか母まで傷つけてしまう。
こんな親不幸はない。
しかし、ここで死んでしまえばさらなる親不孝になってしまう。
母がそう決めてくれたのならそれに賭けたいと思った。
問題がひとつあった。
Sはこの頃、四十キロを切るまで痩せていたが、もともと五十三、四キロはあって、女性としては大柄である。
母は小柄で、事前の検査でも肝臓のサイズは小さいことがわかっていた。
左葉と体重比から割り出した成功不成功ラインからみてもぎりぎりの数値であろうと推定できた。
もともと再移植はハンディがある。
そこへ肝が小さいとなれば……。
Tは右葉を使うことを決断した。
倫理委員会の承諾も得られた。
再移植が行なわれたのは、一九九八年四月三日、最初の移植の日から数えると半年後である。
結果、良好であった。
術後一週間たって、脈管吻合の部分で発生した血栓を除去する手術を受けたが、以降、拒絶反応を含め、大きなトラブルは起きていない。
同じA型の、父から授かった肝臓が拒絶され、母からのそれがうまく体内で受け入れられる。
説明はいずれも推測でしかない。
拒絶とは無関係であるが、困難な再移植を乗り越えさせたもののひとつに容量の大きい肝臓があったと考えられた。
この症例が、成人肝移植の術式を転換させる嗜矢となった。
以降、右葉を使う症例が徐に増え、やがて右葉使用が普通となっていく。
統計的な成績でいえば、成人間の成績を小児移植に接近するほどに、すなわち生存率を八〇パーセント近くまで押し上げていく。
当初、右葉使用については、東大チームなどはこれに批判的で、ずっと左葉使用に限定していた。
いささかでもドナーヘの危険性が増すという見方である。
切除肝の容量によって成否のラインがあるなら、患者を選べば左葉のままでよいはずだという見解もあった。
論理的にいえば、これらの批判は当然あってしかるべきものである。
レシピエントへの利益はドナーにとっての不利益であるからだ。
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